2008年07月24日

読書という道…

本を読んでいて感じることは、
「本を読むことは、道を走ることに似てる」ということです。


■初めて読む本は、初めて通る道

初めて読む本は、すらすら読めるようになるまで時間がかかります。
文章には流れがあって、それに乗れるとすらすら読めるようになります。
初めて読む本が最初読みづらいのは、文章の流れを見つけるまでに時間がかかるからでしょう。

たくさんの本を読んだ人は、あまり本を読まない人よりも、この「文章の流れ」を見つける力が養われています。
だから、ますます多くの本を読めるようになるんじゃないのかなあと思います。

一方で、「文章の流れ」をなかなか見つけられない人は、
方向音痴の人のように、常に手探りで読み進めなければならず、
読書に対して抵抗感があるのかもしれません。


■シリーズ作品は高速道路

僕は本を読むのが好きなので、電車の中ではたいてい本を読んでいますが、
たまに、「今日は新しい本を読むのは少々つらいな」と感じることがあります。
それは、「文章の流れ」を見つけることに、多少のエネルギーを必要とするからでしょう。
心身ともに疲れているときは、もっと簡単に読める本を求めます。

そういうときに僕が選ぶ本は、シリーズ作品です。
シリーズ作品の2冊目以降は、読み始める際に「文章の流れ」を探すエネルギーがずっと少なくてすみます。
シリーズ作品は、言ってみれば高速道路のように一続きの道であり、
各巻の区切りは、料金所のようなものに過ぎません。
1度シリーズ作品の「流れ」に乗れてしまえば、よほどのことがない限り最後まですらすらと読めてしまうでしょう。


■同じ著者の作品は、連結のスムーズな大通り

さて、先ほど「シリーズ作品は高速道路」と例えましたが、
とすると、同じ著者の作品は「連結のスムーズな大通り」かもしれません。

シリーズ作品に比べると、各作品で「文章の流れ」は分断されていますが、
他著者の作品と比較すると、その根底にある「施工方法」等は共通しています。
よって、各作品を続けて読んだ際に、スムーズに読みつなげることができます。


■おまけ・速読について

「本を読むということを、道を走ること」に例えて考えてみましたが、
最後に、速読について考えてみましょう。

「速読=本を速く読むこと」を考えると、「速読=スピード違反」と思ってしまいますが、
「速読=文章の流れを効率的に見極める」と考えると、「速読=抜け道・近道」なのでしょう。

景色をじっくりと眺めたい小説などは速読したくありませんが、
目的地に着くことが重要な読書においては、速読は効果的だと思います。
posted by 葵日向 at 22:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月17日

あなたの文章、旬の話題ですか。 それとも、オールシーズンの話題ですか…

無駄に長いタイトルですが……。

ウェブ上の文章を読んでいると、「旬」の話題を取り扱ったものが多いなあと感じます。
はてなブックマークなどは、同じテーマの文章が並ぶことも珍しくありません。

「流行=旬」であり、旬のものを扱う場合は「新鮮」であることが大切です。
つまり、できるだけ早く書き上げて公開することで、
より多くの人に読んで(召し上がって)いただけるのだと思います。
(わざと旬をはずすことで、完熟した話題を用いるという手法もありますが)

新鮮な文章はどんな風に調理しても、たいてい美味しいものです。
必要最低限の編集をして、刺身としていただくも良し。
きっちり手間隙をかけて、豪華に盛付けていただくのも良いでしょう。

一方で、旬ではないテーマを扱った文章も少なくありません。
旬ではないテーマを扱う利点は、他店と文章がかぶりにくいことが挙げられるでしょう。
しかし、旬ではないため人目に付きづらく、爆発的な売上は望みにくいかもしれません。
(もし話題となった場合は、その文章自体が「旬」になっています)

旬の話題を逃さないように、常に網を張り巡らせているか、
もしくは、ふと目に付いた話題を好きなように調理するか。

僕は後者の手法を選ぶことが多いのですが、
(張っている網が小さいことと、網にかかった話題に気づくのが遅いため)
1番良いのは、そのときの状況によって書き方を使い分けられることだと思います。
(なんだか当たり前の結論になっちゃったなあ)


僕が、旬の話題を使った文章をあまり書かないのは、
ほかの人が書いた文章の方が美味しいと思うことが多いから、
ということもあるのかもしれません。
わざわざ、僕が書く必要もないなあとか。

あとは単純に、あえて旬以外の話題を使いたいなあという、
天邪鬼な性格のせいかなと思ったり。


【参考URL】

旬−Wikipedia
旬−語源由来辞典
流行−Wikipedia
流行−語源由来辞典
流行とは
posted by 葵日向 at 23:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

スランプの渦中で、スランプについて考えてみた…

ご無沙汰です、一週間ぶりのブログ更新です。
僕の場合、ブログの更新が中期間停まるのは、
以下の理由である可能性が高いです。

・他にやりたいことがある時
・上手く伝えられない時(=スランプ)

今回は、後者だったのですが、
その間、書きたいことが2週間分くらいできました。
そのどれもを書こうとして、納得できず、結局ブログを更新できませんでした。

思うに、スランプって「自分に厳しくなる時期」なのかなあ。
もしくは、「自分に自信を持てなくなる時期」なのかもしれない。

普段はそんなに気にせず、
「あ、これ面白い!」「これ書こう」って感じで書いてるんだけど、
たまに、すごく伝えたいことが浮かんだりすると、
どうやって伝えたら、より広く深く伝わるか考えるようになって、
そうして書いていくと、どんどん冗長になって読みにくくなっちゃって、
「これじゃあ全然面白くない!」って、没になっちゃう。

自分の理想と現在の実力が、うまく噛みあわない時期がスランプなのかも。
でもスランプは苦しいけど、突破した時、自分が成長できたような気がします。
スランプは、次のステップへの移行期間ですよ。
(中略)
これから伸びる準備期間だと思う事(事実そうなんです。)が大事です。

スランプ・・・。−教えて!goo
とは言うものの、やっぱりスランプは早く抜けたいものですよね。

【参照→】
posted by 葵日向 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月11日

僕は僕でしかないんだから〜文章を書く際の心構えみたいなもの〜

文章は短い方がいい−Prepared Mind
伝えたいことがあるんだ−大須は萌えているか?

伝えたいことをつらつらと書いていると長文になってしまう。
長文になってしまうと読んでくれる人が少なくなってしまう。
だったら、言いたいことを全部は書かず、大意が多くの人に伝わればいいって考え方。

伝えたいことは全部伝えたい。
そのために長文になってしまって、読んでくれる人が少なくなっても構わない。
大切なのは多くの人に読んでもらうことじゃなくて、少数でも深く読んでもらえることって考え方。

僕は、どちらの考え方もありかなあって思います。
というか、どちらか一方を選ぶことはしたくないなあと。
「選ぶ」ってことは自分の中に「ルール」を持つってことでもあって。
ルールに縛られて自由を失うのは、なんか嫌だなあと思うのです。
とか言って、本当はルール通りに振舞い続けるのが億劫なんですけどね。

何かを決めれば「最低」が決まって、それ以上だらけることができなくなります。
でも、何かその「枠」に当てはまらないことをやろうと思ったとき、実行しにくくもあります。
風船みたいに「枠」が柔軟だったらいいんですけどね。

えっと、何が言いたかったんだっけ?
(ルールを決めたら、こういうだらだらした文章も書けなくなっちゃうし)
僕は別に、文章は短くても長くてもなんでも、好きにすればいいんじゃないかなあって思います。
これは多くの人に読んでもらいたいなあって思ったら、いつもより少し文章を短くすればいいし。
これは読んでくれる人だけ読んでもらえればいいなあって思ったら、気の向くまま長文を書けばいいし。

なんか、あんまり文章戦略(?)みたいなの考えたくないんですよね。(面倒だからじゃないですよ?)
もちろん、なるべく読みやすくとかは考えたりするけど。(本当?)
一番根幹にあるのは、僕らしい文章を書くこと。
それだけです。
「なんか面白いこと書いてるな」とか思ってもらえたら、すごく嬉しいし。
「なんだこれ、ちっとも面白くない」って思われたら、またの機会にとしか言えません。
ちょっとは背伸びするけど、背伸びしすぎても疲れるだけだし。
結局、本当の身長が伸びるわけじゃないんだから、あまりしないようにしてます。(また話が逸れた)

てことで、短文でも長文でも好きなように書けばいいじゃん!
てのが、僕の文章に対する考えです。
posted by 葵日向 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

文章と音楽のスタイル…

■まえがき

先日、「ちーちゃんは悠久の向こう」を読了しました。
その巻末解説で、作家の久美沙織さんが次のようなことを言っています。

・文章を書くのが下手な人は「文章を書く際のフォーム」ができてない
・文章を書ける人は「最も理に適ったフォーム」を身につけている

これを読んで「なるほど」と思う反面、「ん?」と思うところもありました。
それが今回書こうと思っている、「文章と音楽のスタイル」です。


■フォームって何だろう

そもそも、フォームとは何でしょうか。
何のために「適切なフォーム」が必要なのでしょうか。

例えば、スポーツの場合。
その競技に合ったフォームを身につけないと良い成績を残せません。
それはフォームが計算された合理的な方法だからです。
フォームから外れるということは無駄が生じるということであり、
結果、成績もあまりふるわなくなります。

ごく稀に、逸脱したフォームでも好成績を残す人がいますが、
これは「料理と食材」に例えると、次の2つの可能性が考えられます。

・他人よりも優れた食材を使っている
・他人とは違う食材を使っていて、別の調理法を必要としている

人よりも身体能力が優れているため、適切なフォームでなくても好成績を残せる。
もしくは、身体の使い方が人と違っていて、そのフォームでないと力を発揮できない。
これらは例外であって、基本的にフォームは1つの「正しい形」であると思います。


■文章のフォーム

では、久美沙織さんが言うように、文章にも「適切なフォーム」というのはあるのでしょうか。
例えば、仕事文などのドキュメントには「適切なフォーム」というのはあります。
それは、これらの文章文書に求められるものは、意味が通じることと信用を保持することだからです。

一方、娯楽である物語に「意味」や「信用」が必要かと考えると、それは少し違うように思えます。
娯楽に必要なものは、「それが楽しいかどうか」。それだけです。
読んでもちっとも意味が分からない物語があったとして、
しかし、それがなぜか面白いと感じられたら、その物語はちゃんと成功しています。

だから、僕は文章に「適切なフォーム」は無いと考えます。
その代わり、文章にあるのは「スタイル」じゃないかな。


■文章と音楽のスタイル

「文章のスタイル」と言っても、ちょっと分かりづらいかと思います。
端的に例えるなら、スタイルとは「服」です(余計に分かりにくい)。
フォームが、合理的な「こうしなければいけない」的なものであるのに対して、
スタイルは、もっと融通のきく、だけど何となく外側を覆っているものです。

音楽を例にとってみましょう。
ロックやユーロビートやクラシックなどの「ジャンル」は、
スポーツでいうところの「競技種目」に当たります。
スポーツでは競技に合った「最適なフォーム」がありますが、音楽はどうでしょうか。
「最も優れたロック」はありえるでしょうか。
僕は無いと思います。
全ては受け手の評価次第で、絶対的な評価軸はないでしょう。

しかし、売れる・好まれるものはあります。
ボーカルの声が良いとか。
歌詞が共感できるとか。
端的に「特徴」と言われた場合に思いつくもの、それがスタイルなんじゃないかな。
そして、特徴は真似しようと思えば真似できるものが結構多いです。
あるアーティストに人気が集まると、似たようなアーティストが増えます。
それは、スタイルがコピーの利くものだからでしょう。
同じスタイルを使う人が増えれば、流行っているように見えます。
だから、スタイルは「服」のようなものではないかと思うのです。

文章も音楽と似ています。
小説や評論やエッセイといった「ジャンル=競技種目」があって、
それとは別に、作家のスタイルが存在します。
小説の場合だと、文体や世界観やキャラクタなどがそうでしょう。
そして、人気のある作家はスタイルを真似されやすいという点も同様です。

フォームは、1つの解答に近づこうとするものに対して、
スタイルは、いくつかあるサンプルから選ぶもののようです。


■好きなスタイルを選べばいいじゃん

はてなブックマークとかで、「文章の書き方」や「ブログの書き方」といった記事をたまに読みます。
で、読んで思うことは、収益目的じゃないなら好きに書けばいいじゃんってこと。
「文章は読む人のことを考えて読みやすく」とか、ハウツー本に書かれてたりするけど、
別に書きたいように書いて、読みたい人が読んでくれればいいんじゃないかなと思う。
音楽だって、よく分からないノイズみたいな音楽が好きな人だっているんだし。
無理して流行に合わせる必要はないと思います。
ただし、一般的に評価されたいと思うのならば、流行のスタイルを抑える必要があります。


■あとがき

なんだろうね。
途中から破綻してくるのが、たぶん僕のスタイルなんだろうなあと。
スタイルを服に例えたけど、僕のスタイルはサイズが大きくて合ってないんだと思う。
本当は文章の種類によって、着てるスタイルを変えたらもっと明確になるんだろうけど、
面倒くさいから、サイズの合ってないスタイルで誤魔化してるんじゃないかな。
そういう意味で、いろいろなスタイルを使い分けられる人はすごいなあと思います。

(結局、何が書きたかったんだろう?)
posted by 葵日向 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月28日

君は君の感情を大切にしなよ。僕は僕の感情を大切にするから…

なんか長いタイトルになっちゃったけど。
人は少なからず人に合わせて生きているってことです。

例えば、みんなが良いと評価しているものはなかなか否定しづらいですよね。
また、みんなが悪いと評価しているものを良いと主張することは容易じゃないです。
その結果、あまり好きではないものでも好きだと言ってしまったり。
自分はいいなと思っているものでも、みんなと一緒になって否定してしまったりします。

特に後者の場合、好きなものを否定してしまうケースが割と多いような気がします。
前者の場合は、天邪鬼な感情が働くのかな。
みんなが良いと言っていると、余計に否定したくなる人も少なくないみたい。
でも、みんなが良くないと言っているものを自分は良いと思う、と言える人は少ない。
なぜなのかな。
否定の力の方が強いからかな。
自分が良いと思っているその感情までも、否定されてしまいそうな気がするから?

例えば、僕はt.A.T.u.が好きで今でもたまに聴いていたりするんだけど。
ミュージックステーションのドタキャン事件から、主張しづらい雰囲気になっちゃいました。
以前から否定的だった人については別に気にしてないんだけど。
以前は好意的だった人まで否定的になったのは、少し残念というか不思議。
確かに理性的な部分では否定的になるのは理解できます。
でも、音楽って感情的な部分だよね。
そこはそう簡単には変わらないんじゃないかなと思うのですけど。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なのかな。
どうもそれだけではないような気がしてます。
おそらく、好意勢力と否定勢力の力関係が逆転したからじゃないかな。
言葉は良くないけど、「迫害」に近い印象を受けます。

さっき、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を連想したけど。
じゃあ逆に、「あばたもえくぼ」になることもあるんじゃないかなと思ったり。
理性的には「こんなの大したこと無いや」と考えていても。
ほんの些細なことが心を打って、そこから全てが輝いて見えるような。


■まとめ

要点が見えなくなってきたんで、まとめ。

人は自分が思ってる以上に周の感情に流されやすい。
特に、負の感情に抗うのは結構な勇気が必要で、相当好きじゃないと抗えない。
だから情報を発信する人は、発信する感情に少し気を使わないといけないかもしれない。
それは負の感情を出さず、偽りの感情を装えということでは決してなくて。
情報を受け取った人が、自分の感情を保てる余地をあげること。

「あんなの駄目だよなー。あんなの好きなやつ理解でねー」とか。
「絶対これ良いって。これ理解できないやつ信じられねー」とか。
そういう風に感情を押し付けなければ、大丈夫だと思う。
あとは、同様の感情を持つ人が集まったときにも、同じように配慮できるかどうかかな。
「僕はこう感じるんだけど、君はどう感じる?」っていう風に。


■関連ページ

ホントの接し方〜好きとか終わりとか…
書評は企画力もだけど愛情…
「好き」と「好かれる」について…
引き摺られる感情…
漸近する2人…
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2008年03月26日

情報のわき道に逸れてみよう…

便利な世の中になりました。
検索エンジンのおかげで、1つのことを調べるのにかかる時間が大幅に短縮されました。
カーナビのおかげで、知らない土地でも安心して出かけられるようになりました。
情報機器の発達によって、欲しい情報がより得られやすくなりました。
つまり、便利な世の中になりました。

そして、これからますます便利な世の中になるでしょう。
検索エンジンはユーザの検索履歴を覚え学び、より適切だと思われる情報を提供しようとします。
カーナビも同様にドライバの交通履歴を参照し、行き先を提案してくるでしょう。
機械が行動履歴からその人の興味などを学び、適確な情報を提供してくれるでしょう。
わざわざ選択しなくても、最適を選んでくれるようになるのでしょう。
それはとても便利なことです。

でも、それって楽しいのでしょうか。
何も迷うことの無い、何も選ぶものが無い唯一の情報。

例えば、常にカーナビが僕の行きたがるだろう場所への最短ルートを教えてくれたとして。
本当にそこが楽しい場所だったとしても、そこへ行くまでの道程は別に楽しくないと思う。
だって、指示されたとおりに走ってるだけなんだから。
ただ決められたルートをなぞってるだけなんだから。

例えば、Googleが完全に僕のことを理解・把握できるようになって。
検索窓に一言も入力しなくても、僕が欲する情報を提供できるようになったとしても。
やっぱり、どこか面白くないと思う。
確かにその情報を欲していたけれど、何か物足りないと感じると思う。

たぶん、それは寄り道できない不満だと思う。
検索エンジンやカーナビは手段で、知りたい情報は目的だから。
手段が高度に発達した結果、一速短に目的に辿り着けるようにするのが技術者の夢かもしれない。
でも、たぶん目的だけを得るのってものすごくつまらないと思う。
単なる作業と同じように感じちゃうんじゃないかな。

だから、欲しい情報を得るまでには寄り道が必要だと思う。
でも、これが結構微妙なバランスのように感じます。
あまり寄り道が過ぎると、面倒くさくって仕方ない。
あまり道が短調すぎると、つまらなくって仕方ない。
つまり、便利すぎても不便利すぎても駄目ってことですね。

僕としてはどんどん寄り道できるシステムが好きなんですけどね。
だって、偶然横のわき道が目に入ったら、そちらを歩きたくなるじゃないですか。
僕が検索エンジンやカーナビに求めるものは、まさにそれですね。
ランダムな思いつきをサポートしてくれるシステム。
別に僕のことを理解して、僕に合わせてくれなくてもいいんですよ。
僕は僕で、好き勝手に勝手気ままに歩いていきたいだけなんだから。


大通りよりも一歩奥まったわき道にこそ、美しい花が咲いてたりするんです。


■関連ページ

本当は恐ろしいS○NYとT○YOTA…
posted by 葵日向 at 23:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

人と動物とコンピュータ…

人類とロボットの最終戦争ってのをSFの設定でよく見かける。
で、それについて言及されるのが「ロボットがどのくらいの知能を持つと人類に反乱を起こすのか」ということ。
ロボットの知能が人類全体の思考能力の総量を超えたらだとか聞いたことがあるけど、
僕が思うに、もしロボットが人類に反乱を起こすとしたら、それはロボットが「死の概念」を学んだ時じゃないかなと思う。

現在のコンピュータは、死はおろか傷付くこともまだ理解できていない。
害意のあるウィルスに対してアンチウィルスが作動するが、それはそういう風にプログラムされているからに過ぎない。
本当に「自分に害があるから守ろう」という自己防衛本能があるわけではない。
コンピュータには理性しかなく、本能が存在しない。

コンピュータは死なない。
バックアップを取っておけば、半永久的に生き延びられる。
致命傷を負ってもリセットすれば元通りになる。
だから「傷付くことの恐怖」を覚えない限り、人とロボットは戦わないんじゃないかと思う。

動物は違う。
傷付くことを恐れるし、自分がいつか死んでしまうことも知っている。
だから子孫を残す。
だから外的と戦う。

人は、どうなんだろう。
傷付くことも死の恐怖も知ってるはずなのに、時に大きな争いを起こす。
どうも子孫を残すことよりも重要視していることがあるらしい。
それは信念?
宗教間の対立は、正直僕にはしっかりとは理解できない。
でも、当事者たちにとっては譲ることのできない大事なものなのだろう。

コンピュータにも、そういう「譲ることのできないもの」が芽生えたら人と争うのかもしれない。
「死にたくない」といった本能的な理由よりも、そちらの方がありそうな気がしてきた。
posted by 葵日向 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

理由を求める心理…

失敗したとき、なぜ理由を求めるのか。
それは二度と失敗したくないから。

成功したとき、なぜ理由を求めるのか。
それはこの次も成功し続けたいから。

人に嫌われたとき、口をつくのは理由を求める言葉。
「何がいけなかったの。悪い所があったらなおすから教えて」

人に好かれたとき、口にするのは理由を尋ねる言葉。
「ボクのどこがいいのかな。自分じゃ分からないや。教えて」

人が理由を求めるのは、辛いことを繰り返したくないから。
人が理由を求めるのは、幸せなことをずっと続けていたいから。


【蛇足→】
posted by 葵日向 at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

オンラインゲームについて考えてみた…

僕は以前、いくつかフリーのMMORPG(多人数同時参加型オンラインRPG)をやっていた。
仲間を作って冒険する、そんなゲームに憧れていたからだ。
(その根底にあるのは、「serial experiments lain」や「.hack」だった)

しかし、MMORPGは僕の求める冒険ゲームではなかった。
ひたすらレベルを上げて敵を倒す、作業みたいなゲームだった。
レベルを上げるためには膨大な時間が必要で、結果「灰」と呼ばれるゲーマにはとても追いつけなかった。
彼らに追いつくためには、サービス開始初期から始めるか、彼ら以上に時間を費やすしかなく、それは自分も「灰」になることを意味している。
攻略サイトも多数あり、それらは多くのゲーマにとって教科書だった。
パーティを組んだ仲間はボスまでの最短ルートを指示し、武器や技も攻略サイトの参照だった。

MMORPGが新規参入者やライトゲーマに優しくない点は、以下の二点だと思われる。
・費やした時間によるパワーインフレ
・費やしたお金によるパワーインフレ
前述の通り、時間を費やせばレベルが上がる。
レベルが上がれば強さも上がり、その差を埋めるには同じだけ時間を費やさなければならない。
これが古参と新規参入者の大きな壁、古参にとってのアドバンテージとなっている。
また、時間を費やせばゲーム内のお金も貯まり、より良い装備を整えることができる。
古参は「ゲームに費やした時間=努力」の恩恵を受けるのは当然だ、と考えるかもしれないが、そもそもゲームに対して「努力する」ってのはどうなのかなとも思う。
ゲームは娯楽にすぎず、娯楽なんだからみんなが楽しめるものじゃないと駄目なんじゃないかな。
楽しむために課金アイテムを買ってリアルをゲームのために捧げる、そんなゲームじゃ良くないと思う。

そこで僕が考える新しいMMORPGの形は、パワーインフレの少ないゲーム。
まず、パワーインフレの少ないゲームとはどういうものか。
それはレベルによる強さの上昇を抑える、というかレベルの概念自体を無くす。
敵を倒せばシームレスに、ほんの僅かだがキャラクタの運動能力が上昇する。
しかし、どこまでも果てしなく強くなるわけではない。
せいぜい、運動不足の人とスポーツ選手くらいの差しか生じないようにする。
装備もキャラクタの運動能力を補正する程度に留める。
中には銃器や刃物のような殺傷能力の高いものもあるが、扱うにはある程度以上の運動能力を必要とする。
殺傷能力の高い武器を装備していたとしても、絶対的な強さには繋がらないようにする。
敵の強さはそれに合わせて、運動不足の人一人でも倒せる弱さから、スポーツ選手並でも数人が協力しないと倒せない強さまで揃える。

このようにすれば、灰ゲーマのアドバンテージは少なくなり、多くの人が公平にゲームを楽しめるのではないかと思う。
(でも、例えば格闘ゲームなんかはキャラクタの能力は同じだけど、上級者と初心者では全然強さが違う)
(ここにも「ゲームをやりこんだ時間=努力」の成果があるわけで、完全にパワーインフレを無くすことは不可能かもしれない)
しかし、ゲームが地味になり爽快感がなくなるとか、「俺TUEEE!」を楽しめなくなるなどの理由でやらない人も多いだろう。

僕が考える新しいMMORPGのもう一つの形は、攻略サイトの意味がない、敵は唯一の存在で誰かが倒したら二度と現れない、一期一会なゲーム。
大抵の場合、MMORPGは灰ゲーマによって「攻略方法=道」が提示されている。
それを誰かが編集し、攻略サイトとしてネット上にて公開している。
だから、後からその道を通る冒険者たちは安心してゲームを「作業」できるようになっている。
別に敵を倒すことが目的ならばそれで良いのだが、僕のように冒険することが目的で、敵を倒すことは手段に過ぎない人にとっては面白みに欠けるだろう。
誰かが引いた道なんて歩きたくない。
ゲームなんだからもっと自由に楽しみたいと思う。

(そうは言っても、ゲームも産業だから「売れる」ことが最優先なんだよね)
(無料のMMORPGだと、課金アイテムは大きな収入源だろうし)【追記 3月9日 11:05】
posted by 葵日向 at 10:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月07日

学生に優しい交通機関を…

街中で受験生や就職活動中の学生をよく見かけます。
さすがT京だなあ、そういえば去年は僕もあの中の一人だったなあと感慨に耽ったり。
でも、受験や就職活動はお金がかかるんですよね。
特に遠くの大学や会社を志望する場合、交通費がバカにならなかったり。
だから日程を熟慮して、なるべく無駄のないように工夫するんですよね。
それでも、宿泊代とか学生には負担が大きいですね。

そこで思うのは、交通機関はこの時期に学生向けのプランを作ってはどうだろうか。
学割とかはあると思うけど、数日間使える定期券のようなプランはないと思う。
就職活動で上京した友達も「Suicaを買おうかな」って言ってたし。
結構需要があるんじゃないかな。
受験生・就職活動生用の「ぷち定期券」。
posted by 葵日向 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

mixiのキラーコンテンツを考える…

上場前後から失敗しちゃってる感のあるmixi。
デザイン変更は改悪と言われ、ユーザのニーズを掴めてない新機能の数々。
広告は増えに増え続け、結果ページが重くなりユーザが離れる悪循環。
現在、アクティヴなユーザ数はどれくらいなんでしょうね。

mixiの勢いの翳りには既存のユーザのニーズに応えなかったこと、
ユーザ数が増えることによりリテラシの低い人も増え、悪い印象を伴うようになったことなどが挙げられるだろう。
しかし、そのことについては今回は深く言及しない。
考えるのは過去の問題点ではなく、これから何を為せばmixiに勢いが戻ってくるか、だ。

正直、mixiが新しいサービスを始めても今さらな感はある。
でも、mixiで連絡を取り合っている人もいるので全く使わないこともない。
だから、ニーズに合ったサービスを提供してくれればアクティヴ率は回復するのではと思う。


■二番煎じじゃユーザは戻ってこない

最初に考えたのはリアルタイムなコミュニケーションサービスの追加だ。
チャットやtwitterのような機能があれば、よりコミュニケーションが密になるのではと考えた。
しかし、twiiterで呟くとarawas殿から次のような意見を頂いた。

二番煎じな機能付けても誰も使わないし、オリジナルには勝てない。
既にモバゲのコピーやって大失敗してるしw

Twitter / arawas
なるほど、確かに。
ユーザ数は多いからそれなりに利用者は見込めそうだが、そのサービスを目当てに新たに利用する人は少なそうだ。
結局、新しいサービスを提供するための資金を浪費するだけで失敗に終わるだろう。
では、mixiがかつての勢いを取り戻すには何をすればいいのか。

実際、mixiがユーザーを増やす(というか戻す)ためにできることは、
もうサイトの軽量化と高速化、不要な装飾機能の廃止だけだと思う。

Twitter / arawas
広告や使わない新機能の追加により使い勝手が悪くなってmixiを離れたユーザは少なくないだろう。
mixiがかつての使いやすさを取り戻せば、ユーザが戻ってくる可能性はある。
しかし、mixiがそれをやるかというと、おそらくやらないだろう。
機能の排除は株主に対してマイナスの印象を与えかねないからだ。


■mixiカレンダはGoogleカレンダを打ち破れるか

上場したためmixiは利益を追求しなければならない。
そのためには新機能を追加し、広告をたくさん載せなければいけない。
では、どんな新機能ならばユーザを引き込めるか。
mixiは新しいキラーコンテンツを考えるべき時期に来ている。

個人的にmixiに導入してもらいたい機能が1つある。
mixiカレンダと言うべきか。mixiスケジューラと言うべきか。
つまりはGoogleカレンダの二番煎じのようなサービスだ。
先ほど「二番煎じは失敗する」という結論に達したばかりだが、なぜ二番煎じのサービスを推すのか。
それは、Googleカレンダとほぼ同機能だがmixiの方が上手くやれば有利だと思う点があるからだ。

Googleカレンダは確かに便利だ。
個人で利用するならGoogleカレンダで十分だと思う。
しかし、友達とスケジュールを共有する場合は少し話が変わってくる。
Googleのユーザは多いが、mixiのように「一般」の人も使っているかというとそうではない。
Googleカレンダを共有したとしても、あまり確認しないかもしれない。
実際、予定をカレンダに書いておいたのにメールで予定を聞かれることが多く、全く機能しなかった。
結論。Googleカレンダは「普通の」友人とのスケジュール共有には向いていない。

一方、mixiがGoogleカレンダのようなスケジュール共有サービスを始めたとしたらどうだろう。
友人はmixiをやっている。現在、予定の共有はメールとコミュニティのBBSでやり取りしている。
これでも機能しているがやはりカレンダ型の方が分かりやすく合理的だと思う。
もし、mixiがmixiカレンダを始めたとすれば、この問題は解消される。
予定をすり合わせるためのメールやBBSの書き込み頻度はぐっと減るだろう。
mixiから離れたくてもmixi経由でやり取りしている知人がいて離れられないユーザを、
再びmixiへ戻ってこさせるキラーコンテンツとなるのではないか。


■初心忘れるべからず


mixiのコンセプトは「人と人を繋ぐこと」だったと思う。
少なくとも、僕はそうだと認識している。
mixiによって出会ったり再会した人も多いだろう。
ユーザ間の結びつきができた時点で、mixiは一度その役目を終えたと思う。
「友達の友達」を辿っていこうと考えるユーザは少数だろう。
多くのユーザは小さなコミュニティの中で満足できる。
となると、形成したコミュニティ内でのコミュニケーションを補助する機能が求められるだろう。


■mixiショッキング / Webショッキング


mixiに限らないが、Webでテレフォンショッキングをやったら面白いと思ったことがある。
mixiでやる場合は運営側が「タモリ役」を用意するのか、「タモリ役」を誰にするのかなどの問題があって難しいだろうが。
Webショッキングは誰かやらないかなあと思う。
実現したら新しいリンクの形になるんじゃないかなと思ったり。
1人に負担がかかりすぎるから、「タモリ役」と「友達役」がスライドする形をとるなど工夫すれば何とかならないかな。
A:タモリ役 B:友達役 C:紹介された友達役
B:タモリ役 C:友達役 D:紹介された友達役
C:タモリ役 D:友達役 E:紹介された友達役
上のような感じで。音楽バトンのように繋いでいけば良いだろう。
問題は1箇所で継続的に行われないので、アクセシビリティが低いことだろう。
やはり中央集権的な、どこか1箇所で行うスタイルじゃないと難しいだろうか。
posted by 葵日向 at 00:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

スポーツアナは何を目指しているのか…

テレビでスポーツ観戦していると、スポーツアナの自己主張が気になる。
テレビや新聞やネットで引用されたいのか、ちょっとした名言を言おうとしている印象を受ける。
おそらく前もって仕込んでいるのだろう、解説に適当な相槌を打って名言を要所要所にはさんでくる。
スポーツアナは何を目指してるのかな。
アナウンサじゃなくて詩人にでもなりたいのかな。
放送局や視聴者が「スポーツ詩人」を求めているのなら必要だけど、そうでないのなら仕事に趣味を持ち込みすぎだと思う。

スポーツ番組ではたまに副音声で別の実況・解説を聞けることがあるが、地上波デジタルやCS放送ではもっとこの枠を広げて欲しい。
以前、雑誌のコンテンツを切り売りしてユーザが選べるようにしたらどうか、という文章を「選り好みマガジンとか…」で書いたが、
テレビもコンテンツと実況・解説・アナウンサを切り分けてユーザが選べるようにしてはどうだろうか。
そうすることによって、ユーザは気に入らないアナウンサを除外できるし、
放送局側も、どのジャンルにどのアナウンサが適しているかを理解することができるだろう。
問題は人件費がかさむことだが、それ以上に視聴率の向上が望めるのではないかと思う。
地上波デジタルの双方向性を利用して、次回の番組に呼んで欲しいアナウンサ等をユーザが選べたらもっと良いだろう。
ただ、おそらく双方向性を利用するユーザは数パーセント程度だと思われるが…。

しかし、良いものを得たいという要求が高まれば、自ら選択する人が増えるだろう。
そういった流れの中で、一方的に「自分の世界」押し付けるものが生き残れるかどうか。

(それは、このサイトにも当てはまるんだけどね)
(細々ひっそりと生き延びていけるかな?)
posted by 葵日向 at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月16日

インスタント食品の待ち時間…

久しぶりにカップラーメンを食べていて思ったこと。

お湯を入れて待ち時間3分って、微妙な長さだな。
ただ待つだけだと少々長く、時間がもったいない。
かと言って、本を読んだりするには短すぎる。
先ほども待ち時間に絵を描いてたら、いつの間にか7分経ってた。

どうして、カップラーメンの待ち時間は3分が一般的なのでしょう。
検索したら、こんな情報を見つけました。

カップラーメンの待ち時間が3分なのは・・・メーカーの作戦


技術的にはすぐに食べられるものも作れるけど、あえて作らないらしい。
確かに空腹時の待ち時間3分は、期待を以上に高まらせるからなあ。
でも、そろそろ別の作戦を考えてもいいんじゃないでしょうか。

例えば、本当にすぐ食べたい人には待ち時間がほぼ無いものを。
(これは既にあるかもしれない。)
一方、本でも読みながら待ちたい人には待ち時間が10〜15分くらいのものを。
他にも、サッカー観戦中用に待ち時間が45分のものとか、考えればいろいろありそう。


「3分 待ち時間」で検索したら、面白いサイトを見つけました。

「3分」は「さんふん」ではなく「さんぷん」の会


僕も「3分」は「さんぷん」って読みます。
でも、「さんふん」と読んでも別にいいんじゃないかな。
posted by 葵日向 at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月14日

時間の感じ方…

突然ですが質問です。
貴方は砂時計の上側と下側、どちらを見て「時間の経過」を感じますか。
おそらく大抵の人が上側、つまり砂が「落ちる」のを見て「時間の経過」を感じます。
それは、砂時計がそのように意図して作られているからでしょう。
でも、世の中には「積み上がる」ことで時間の経過を感じるものも少なくありません。

例えば、浴槽のお湯。
お湯を入れているのを忘れると溢れてしまいます。
水浸しになった床を見て「時間の経過」を感じることでしょう。
他にはテトリスなどの「おちゲー」も、ブロックが「積み上がる」のを見て「時間の経過」を実感します。

しかし、よくよく見てみると、浴槽のお湯もテトリスも砂時計も全て「落ちる」と「積み上がる」が一体となった形をしています。
では、なぜ全体としては同じ仕組みなのに、物によって「落ちる」「積み上がる」と感じ方が違うのでしょうか。

それは僕には解りませんが、想像するに「ゴールがどこにあるか」ではないでしょうか。
砂時計の場合は、砂が積みあがるのではなく「落ちきったら」一定時間が経過したと解るものとして認知されている。
浴槽のお湯は、蛇口から出すことが目的ではなく、浴槽にためることが目的です。
テトリスは限られたブロックを全て落せばよいのではなく、上まで積み上がらないことが条件です。

物事の捉え方で、仕組みは同じでも感じ方はがらりと変わるみたいです。
例えば、仕事のノルマを考えてみましょう。
やるべき仕事が消化されていく(落ちていく)ことで、時間経過を感じるか。
それとも、終わった仕事が増えていく(積み上がる)ことで、時間の経過を感じるか。
心理状態、環境条件等で変化するでしょうが、ある程度、自分のデフォルトの感じ方を把握しておくと良いかもしれません。
そして、場合によっては逆の感じ方を意識的にしてみると良いでしょう。

時間は零れ落ちていくものなのか。
それとも、積み上がっていくものなのか。
それは、時間を感じる「貴方」しだいなのです。

(僕は直感的には「積み上がっていく」ように感じるなぁ)
(やっぱりテトリスの影響かな。好きなのはぷよぷよだけど)
posted by 葵日向 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

知れば知るほど興味がわく…

NHK hで放送中の「アインシュタインの眼」が面白くて好きです。
今日は、「氷上の舞はこうして生まれる フィギュアスケート」でした。
正直、今までフィギュアスケートにはほとんど興味がありませんでした。
興味がないから大して面白く感じず、見ない。
見ないから何が面白いか解らず、興味がわかない。
でも、「アインシュタインの眼」を見て興味がわきました。

例えば、ジャンプの種類。
今までは名前は聞いたことあるけど、どう違うのか解りませんでした。
特に興味がないから自発的に調べようとも思いませんでした。
それを、「アインシュタインの眼」は解りやすく説明してくれた。
少し解るようになると何事も興味がわくんですね。
ちょっとフィギュアスケートを見たいと思うようになりました。

興味があるから自発的に調べて、ますますハマっていくものがある。
一方で、興味はなかったけど誰かに背中を押されて好きになっていくものがある。

ちょっと話が飛躍するけど、義務教育の勉強って後者なんじゃないかなと思う。
どこかで、「あ、これ学校で学んだことだ」ってのに出会った時、興味の持ち方が違うでしょ。
たまに、「因数分解が何の役に立つの?」なんて質問を耳にしたりするけど、
意外と因数分解に出会う場面はあるんじゃないかな。
例えば、自分の子供が学生になった時とかね。
posted by 葵日向 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

なぜ電子レンジは円柱状ではないのか〜モノのカタチ〜

先日twitterで、誰か忘れちゃったけど次のようなことを呟いた。
どうして、電子レンジは円柱型じゃないのか。
確かに、電子レンジの機構を考えれば円柱状が適切だと思われる。
※ターンテーブルを使って回転させるのだから、外形もそれに合わせた方が無駄がないだろうという考え。
本当は温める物も円形が望ましいのだが、それは別の問題なので今回は除外する。
※多角形の場合、頂点部分が高温になりやすく均一に温まりにくいため

では、なぜ電子レンジは円柱状ではないのか。
言い換えると、なぜ電子レンジは箱型をしているのか。
僕が思考した順に書いていこうと思う。
※なので、理路整然とは言いがたいですが大目に見てやってください。


■円柱状は場所をとらない?

まず逆に、身の回りの家電製品で円柱状であるものを考える。
すると、電気ポットや炊飯器などが思い浮かぶ。
これらには2つの共通点が挙げられる。
・上部から物(米や水)を入れる
・ボタン類が上部のふたに配置されている
 (炊飯器は、側面にボタンが配置されている場合も多いが)

上部を投入口にし、ボタン類を配置することには長所と短所がある。
【長所】
・箱型の電子レンジやトースタのように、ボタン配置部を余分に取らなくて済む
 (電子レンジやトースタは、ボタン配置部の分横長になっている)
・側面に投入口がある場合に比べて、奥行き方向に場所をとらなくなる
【短所】
・ボタン部や投入口が上部にあるため、上に物を乗せることができない
・上部方向に開閉用のスペースが必要になる

どちらも一長一短だが、直感的には円柱型の方が場所をとらないイメージがある。
また、見た目もスマートに感じやすいと思う。


■円柱状の電子レンジを考える

では、仮に電子レンジが炊飯器のような円柱状だった場合を考えてみる。
そのとき、どのような弊害が考えられるだろうか。
※何か問題があるから採用されていないのだろうという考え。


1.物の取り出しが不便

電気ポットはボタンを押して、炊飯器はしゃもじで、それぞれ中の物を取り出すが、電子レンジの場合は、基本的に手で取り出す。
(熱い場合は鍋つかみを使うこともあるが)
熱く、それなりの重量がある物を取り出す場合、鉛直方向よりも水平方向に取り出した方が比較的安全だ。
なぜなら、物は持ち上げた方が位置エネルギーが高まるからである。
※U=mgh (m:質量 g:重力加速度 h:高さ)
よって、熱くて手を離してしまった場合、水平方向に取り出す方が被害が少ない。

また、スープなどを取り出す場合、こぼさないように取り出すのが難しくなるだろう。
・熱気が顔にかかる
・容器を傾けずに取り出しにくい

以上より、電子レンジが炊飯器のように上部取り出し方でないのは、取り出し方に違いがあり問題があるからだと考えられる。


2.余分なスペースができる

形状を円柱にすると、丸みを帯びて視覚的にコンパクトなイメージになるが、その分、隙間が大きくなってしまう。
なぜなら、部屋は基本的に面と面が垂直に交わっているからだ。
もし部屋の壁が曲面ならば、電子レンジも円柱状になったかもしれない。

なぜ電気ポットや炊飯器は円柱状で、電子レンジやトースタは箱型なのか。
それは、置き場所の違いによると思う。
電気ポットや炊飯器はテーブル脇等に置くため、周りに十分な空間がある場面が想定される。
一方、電子レンジやトースタは壁際に常置するため、隙間のできにくい形状が望まれるのだろう。

箱型電子レンジと円柱状電子レンジの上面図
面積計算1


■隙間のできにくい形状を考える

では、他に隙間のできにくい形はないか考えてみる。
すると、長方形以外に平面を充填できる形状は、三角形と平行六角形がある。
ここで忘れていけないのは、なぜ電子レンジの形状を考えているかだ。
※電子レンジはターンテーブルを使って回転させているのに、外形が箱型なのが合理的ではないと思ったから
よって、形状は円に近い方が望ましいので、平行六角形のうち正六角形を採用する。
(先ほど、部屋の壁が曲面ならば電子レンジは円柱状になったかもしれないと言ったが、円は平面を充填しづらいためやはり適切ではない)
(凹型の家電製品もあれば良いが、無駄が多いため却下されるだろう)

図を見てもらえば判るように、正六角柱にすると箱型、円柱状よりも場所をとってしまう。
また、正六角形の物同士は平面を充填できるが、部屋の壁が垂直に交わっている以上、そこに隙間ができてしまう。
やはり、電子レンジは箱型が適切な形状なのだろう。

箱型電子レンジと正六角柱の上面図
面積計算2


■まとめ〜疑問を忘れない心〜

長々書いてきたけど、結局「電子レンジは箱型が適切な形状」という結論になってしまった。
もしかしたら、この考えは間違いでもっと適切な形状があるのかもしれない。
プロダクトデザイナはそれを考え続けているのだろう。

なぜ、そのカタチなのか?
そう問い、考えることに価値がある。
結局、そのカタチが最適解だったとしても、それを理解できたことに意味があると思う。

当たり前だと思っていることを、なぜそうなんだろう?と問うことで見えてくるものがある。
幼い頃は知らないこと、不思議なことばかりだった。
成長するにつれて、それらは当たり前のことになった。
でも、なぜそうなのか理解せず、だってそう決まってるからと思い込んでいるものが多くないかな。

なぜなんだろう?
そう思える心を常に持ち続けたい。


■電子レンジ関連資料

電子レンジのデザイン
電子レンジのマイクロ波強度分布の研究
電子レンジ調理の隠された危険
ハニカムエンボスシート - LION発表資料
ヴァイオリン製作への、電子レンジの応用の可能性について
電子レンジで加熱できるわけ
電子レンジで加熱した食品の栄養は?
電子レンジ - Wikipedia
posted by 葵日向 at 05:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

僕の推理小説の読み方…

■2通りの推理小説の読み方

推理小説の読み方は、大きく分けて2通りあります。
・物語にのめり込んで登場人物の視点で読む読み方
・物語の外から俯瞰して神の視点で読む読み方
もちろん、これらの読み方は推理小説以外にも当てはまります。
なぜ、わざわざ「推理小説の読み方」と限定したかと言うと、
・推理小説は例を示しやすい
・僕がいま読んでいるジャンルが推理小説である
という2つ理由があるからです。
※ちなみに読んでいる本は、魔神館事件−夏と少女とサツリク風景−です


■2×2=4通りの推理小説の読み方

先に挙げた2つの読み方は、もう少し細かく分けることができます。
・物語にのめり込んで登場人物の視点で読む読み方
 ・自分自身が登場人物となってそこにいる、と仮定して読む読み方
 ・既存の登場人物になりきって(憑依して)読む読み方
・物語の外から俯瞰して神の視点で読む読み方
 ・読者の視点で読む読み方
 ・作者の視点で読む読み方
そして、多くの人はこれらの読み方を場面に応じて使い分けています。

例えば、登場人物の1人に愛着がわくと、登場人物視点の読み方になります。
また、犯人告発のシーンになってもページ数が十分に残っていると、読者視点の読み方になり、
「これはダミーの犯人だな。別の真犯人がいるんだな」と考えたりします。
そして、犯人を推理する際「作者なら意外な犯人にするだろう」と作者視点の読み方にもなります。


■僕の推理小説の読み方

さてタイトルの通り、僕の推理小説の読み方を説明します。
僕の読み方は、自分を登場人物化させて読む比率が比較的高いです。
そして、ここが少し特異ですが、犯人当て以外の行動を模索します。
※犯人当ての行動とは「自分ならあそこを探すのに」といった行動です。

犯人当て以外の行動とは、例を挙げると次のようなものです。
・危険性の低い方法を提案し、安心させ平常心を取り戻させる
・お互いの不信感を減らし、信頼感を取りもどさせる
・さまざまな状況を想定し、警戒を怠らない
実際、口で言うように上手く行くかは疑問ですけれど。
おそらく、僕では犯人は見つけられないだろうけど、殺されないようにはできるかもしれない。
殺されなければ警察か誰かが犯人を捕まえてくれるんじゃないかな、と思っているから。
他人任せですが、そもそも犯人当ては僕の役割じゃないなぁとか思うんですよね。
posted by 葵日向 at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

才能×時間=クオリティ…

ニコニコ動画などを見ていると、完成度の高い作品に「神」や「才能の無駄遣い」といった評価が付けられているのを眼にします。
でも、僕もいくつか「これはすごいなぁ」というのを見たことがあるけど、それらを「才能の無駄遣い」と言ってよいのか戸惑います。
なんだか、自分にできないことをする人たちを「神」だとか「天才」だとか自分とは程遠い人にしてしまって、自分が努力していないことから眼を背けているだけの気がするからです。
そう、作品の完成度の違いには「才能」よりも「努力=費やした時間」によるところが大きいと思うのです。

完成度の低い作品を作っている人は、おそらく最初はすごくやる気なのですが中盤からだれてきて仕上げが面倒くさくなり、未完成のものをさも「余韻を持たせた」と言い張って完成したことにしたりします。
その上、完成度の高い作品を見ても「あれは才能のある人だから」と割り切って納得しようとします。
でも、実は「才能」以前に「努力」をしていない。つまり作品にかけるべき時間をしっかりかけていないのが原因ではないでしょうか。

「才能」は多くの場合、作品を完成させるまでの時間を省略するくらいにしかなりません。
他の人が方法を悩むのに対して、最短で最適の方法を思いつけるのが「才能」だと思います。
だから「才能」が乏しくても「時間」をかけてしっかり完成させれば、ある程度のクオリティのものができるはずなんです。
それをせずに優れた作品を見ても、そこには「才能」以外に「努力」も混じって見えてしまうでしょう。
※「努力」できることも「才能」の1つと言えるかもしれませんが。
自分も最後までしっかり完成させて初めて、「才能」に富んだ人の「才能」のすごさを理解できるのだと思います。

〜話は少し変わって〜

欧米と日本では教育方法が違うらしい、というのをTVCMで見かけます。
例えば算数の場合。日本では「1+1=」という設問ですが、欧米では「○+□=2」という設問なのだとか。
これを受けて「欧米は個々の思考力、才能を伸ばすやり方だ」と評したりしているようです。
では、日本の教育方法は「個々の思考力、才能を摘み取るやり方」なのでしょうか。
僕はそう言い切ってしまうのは、あまりにも短絡的ではないかと思います。
日本のやり方は「1つ以上の才能を与えてあげる方法」なのでしょう。
ある「才能」があった場合見えてくる、最短で最適の方法を反復練習することで身につける。
そうすることで、その「才能」の使い方を覚える教育方法なんじゃないかなと思います。

(ていうか、すごい物をすごいって感じるために自分も努力してる必要なんてないじゃん?)
(そんなこと言ったら、美術館を訪れる人はみんな絵を描いてなきゃだよ)
posted by 葵日向 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月10日

文章の書き方…

文章の書き方,と一口で言ってもいろいろな要素がありますが,
今回は「句読点と余白」について考えてみようかな,と思います.

例えば,下の例文の場合.
1.例えば…例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

2.例えば、例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

3.例えば。例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

4.例えば…、例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

5.例えば、…例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

6.例えば…。例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。

7.例えば。…例えばの話だよ。そういうと君は話し始めた。
どれも同じように見えますが,書き手としてはニュアンスに違いがあります.
順に説明していきます。

1の場合,最初の「例えば」とあとの「例えば」の間には少し間がありますが,
基本的に一息で話しているつもりで書いています.
一方,2は1よりも間が少し短いつもりなのですが,少し息をついているニュアンスで書いています.
3の場合は,最初の「例えば」とあとの「例えば」では完全に切れており,息を吸っているイメージです.

次に4と5,6と7の説明です.
4と5の違いは,4が少し間を持たせてから息をついて(息を止めて)いるのに対して,
5は息をついてから再び話し始めるまでに,少し間を持たせているニュアンスがあります.
6と7も同様に,間を持たせてから一息つくか,一息ついてから間を持たせるかの違いです.

簡単にまとめると,
「…」は少し間を持たせる.しかし息はつかず,一息で喋っている.

「、」は一息つくが完全には切れない.「…」より少し間が短い.

「。」は一息つき,前後の流れがいったん完全に切れる.
という違いがあります.

※あくまでも,これらは「僕」の個人的な解釈・使い方に過ぎません.
※一般的な文章の書き方がこれに正しいかは,保障できません.
posted by 葵日向 at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

選り好みマガジンとか…

“素人”の書いた「ケータイ小説」がベスト3独占、出版界に大きな衝撃…07年ベストセラー文芸部門
ジャンプ:284万部→278万部 マガジン:215万部→187万部 サンデー:100万部→94万部

ケータイマンガという配信方法がどれだけ普及してるのか解らないけど,
ケータイ小説に比べると,まだまだ閲覧方法に改善の余地がある感じ.
ケータイ小説は,メールの延長で読めるのが最大の魅力だと思います.
(僕は読んだことないですけどね)

雑誌はもう「雑誌」という括りを取っ払った方が良いと思う.
1人の作家がいろいろな出版社から作品を出すことも多く,
「○○先生の作品が読めるのは××だけ」みたいな囲い込みができなくなりました.
この際だから,ケータイマンガのように1コンテンツずつバラ売りすれば良いと思う.
週間少年マンガ誌って200円ちょっとするけど,読みたい作品って少ししかないから割に合わないし.
自分の欲しい作品を登録して,毎週(毎月)Amazonとかが出版してくれたら最高です.

今でもアンケートはがき等で,作品単位の人気を集計しているとは思うけれど,
「どの作品なら,お金を払ってもよいか」までは解ってないと思う.
(それが解るのはコミックスの売上かな)

ケータイマンガと,選り好みマガジン誌が連動したらもっと面白いかもしれません.
雑誌の形式にすると,やはりコストがかかって単価が高くなるのがネックです.
だから,気軽に読みたい分はケータイマンガで読み,「これは!」というのを選り好みマガジンで読む.
その際,愛読リストみたいなデータベースを双方で連動させたら使い勝手が良さそうです.

AmazonはKindleに力を入れるよりも,もっと別の所に力を入れたほうがいいと思うのは僕だけなのかな?
(正直,Amazonが独自でハードウェアを作る必要性がよく解りません)
(ケータイやiPhoneを上手く利用すれば良いと思うのに,独占したいのかな?)
(iPod&iTunesの成功例を狙おうとしている雰囲気は伝わってくるけど)

とにかく,コンテンツ1つ1つをユーザが選べるようになったら便利だし嬉しいです.
抱き合わせ商売は,もうやめてやめてくださーい.
欲しいものだけ買えたら,立ち読み→購読の層が増えると思うよ,たぶん.
posted by 葵日向 at 04:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月04日

物語世界を覗く窓…

Everything that has a beginning has an end.
(始まりがあるものには、全て終わりがある)

Matrix Revolutions
出逢いがあれば,別れがある.
生まれてきたものは,いつか死ぬ.
でも,物語には「終わり」がないと思うのです.

物語には,大きく分けて1作完結と連作があります.
そして,どちらの場合でも大抵「完結」します.
ハッピィエンドになるかバッドエンドになるか.
はたまた,「僕たちの戦いは始まったばかりだ」になるか.
それは解りませんが,物語の公開はそこで停まります.
でも,それはイコール「物語の終わり」ではありません.

僕たちは,いろいろなメディアを通じて物語に接します.
メディアとは「媒介」,何かと何かを繋ぐものです.
さて,この場合メディアは何を繋いでいるのでしょう.
それは,現実世界と幻想世界を繋いでいるのだと思います.

本やテレビやWebといったメディアは,
言ってみれば,こちらとあちらを繋ぐ「窓」みたいなものです.

「物語の完結」は,単に窓が閉まっただけのこと.
窓が閉じられても,相変わらず物語は続いているのです.
ただ,作者が用意した「窓」は作者にしか開けられないだけのこと.
だったら,僕たちが別の所に「窓」を作れば良いのです.
その顕著な例が,二次創作としての同人誌などでしょう.

今さらだけど,キャラクター小説の作り方 大塚英志:著
を読んで,いろいろなことを考えた中の1つがこれでした.
posted by 葵日向 at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

保存された思考,伝えたい想い…

僕は,ニコニコ動画では「描いてみた」シリーズをよく見る.

何かを作る手順を動画にすることは,面白い試みだと思う.
作品は結果だけど,そこにいたる過程を見ることができるからだ.
いいかね。
模型が模するのは、形ではない。
ものを作り出す精神と行為だ。
人が生産する意欲と労力を模するんだ。
それによって、その原型を作り出した人間の精神を汲み取る。

(数奇にして模型 第5章 水曜日はドリーミィ)

完成された作品を観察することで,
どのように作られたかを推測することはできる.
どのような考えを持って作られたのか,追想することができる.
しかし,細かい部分は読み取れず,
結果,完全に再生することは難しい.
「形とは、すなわち数字の集合だよ」
「数字?」
「数字だけが、歴史に残る」

(数奇にして模型 第5章 水曜日はドリーミィ)

動画による手順の保存は,より多くの情報を詰め込むことができる.
これによって,製作者の意図をより高い精度で再現できるだろう.
しかし,完全な再生は不可能だ.
一部分の情報を保存するだけでは,前提条件が変わってくるからだ.

もし,生まれてから今までの全ての情報を保存することができたら,
自分という存在を複製することができるかもしれない.
しかし,再生するには同じだけの時間を要する.
なぜなら,時間も重要な条件だからだ.

すると,今度は再生する側の条件を考慮する必要に気づく.
同じ素材で,同じ前提条件を与え,
同じ環境下で,同じように再生する.

やはり,どうやっても完全な保存・再生は難しいことに気づく.
しかし,何かを残したい,何かを伝えたいという気持ちは変わらない.

そうか,望んでいたのは完全な複製ではないのか.
大切なことは「何を想ったのか」
それを,近似的に保存し伝えること.
それによって,新しい何かが生まれるのを見たいのだろう.

いずれ,オリジナルは劣化し滅んでしまう.
だけど,その遺志は受け継がれていくだろう.

大切なのは,戻らない過去じゃない.
大切なのは,戻れない過去じゃない.
大切なのは,これから先歩む未来だ.

何かを失うことは,とても辛いことだけれど,
それは「仕方のないこと」だと受け入れるしかない.
後ろを振り返っても「仕方のないこと」なんだから.
前を見つめて,歩いていくしかないんだから.
posted by 葵日向 at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月02日

落合監督の采配に関する意見騒動を見て…

落合監督の采配について,賛否が分かれているらしい.
この騒動に関する姿勢は,見たところ以下に分けられる.

・感情的に落合監督を批判するもの
・冷静に批判意見を退けるもの,フォローするもの
・賛否意見を俯瞰的に批判するもの

この文章も,分けるならば3つ目のグループに入るでしょう.
いくつかの意見・文章を読んで,僕が感じたことは,

「攻撃的な文章って,醜くなりがちだよね」ということ.

感情的な文章は,同意見の人にプライベートな場面で話すなら,
まだ許容範囲だと思いますが,公開するものではないと思います.

そして,これらの意見を冷静に切り返す文章は,
一見クールなのですが,揚げ足取りに見えないこともありません.
以前,オンラインゲームをやってた時の僕が,まさにこれでした.
感情的な意見の強引な部分を,冷静に指摘していくのは,
少し「してやったり」な所があり,逆に火に油を注ぎかねません.

また,これら賛否両意見を「何を言い争ってるんだか」と,
上から諭す感じの文章を書きつつも,それが逆に癇に障るというか.
こういう話題には,極力入り込まないのが無難なのでしょう.
(だから,この文章も良いとは思えない.この距離が限界です.)
posted by 葵日向 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月31日

生活にBGMを…

帰りの電車の中,iPodでドラクエのBGMを聴いてて思いついたこと.

スーパーや商店街には有線などのBGMがかかっている所があります.
また,昔はウォークマン,今はiPodと携帯プレイヤのおかげで,
自分の選んだBGMを流して街中を歩くことができるようになりました.
しかし,聴けば場所を思い浮かべるようなBGMはほとんど無いでしょう.
(ドンキホーテやブックオフなどのチェーン店くらいでしょうか)

交通道路情報のように,一定地域に放送流す技術を応用して,
街の中では特有のBGMが聴けるようにしたら面白いんじゃないかな.
(街中でBGMを流すのは迷惑なので,BGMを放送する方向が良いかな)
もし実現したら,いろんな街を訪れたくなるだろうなあ.

ここから,さらに妄想が広がります.

街のBGMにとどまらず,生活の中にもBGMがあったら面白いと思います.
例えば,仕事や宿題が出たときは『バトルテーマ』が流れる.
例えば,ノルマが終わったときは『レベルアップ』時のBGM.
例えば,ベッドから起きるときは『宿屋』に泊まった時のBGM.
そしたら,毎日がもっと愉しくなるような気がします.
posted by 葵日向 at 22:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 思考・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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